酒vsタバコ論争

コラム

酒とタバコ、やめるとしたらどっち?

会社の喫煙所で、こういった会話を何度か耳にしたことがある。

酒が飲めない私にとって選択の余地はない問答だが、このやりとりで思い浮かんだ私事について述べていこうと思う。

 

酒の最弱王

結婚前に妻の実家に挨拶に行った時の話である。

いわゆる「娘さんを僕にください」というやつだ。

妻の実家は東北の山と畑に囲まれた山間地域にあった。

ガチガチになった私を、義父・義母・義兄は笑顔で出迎えてくれた。

自己紹介もそこそこに、テーブルには沢山の料理が並び、昼から始まった宴会は深夜まで続いた。

後でわかったのだが、妻の実家の夕食はごはんの登場がだいぶ後になる。

おかずをツマミに晩食がスタートし、ご飯はいちばん最後となるスタイルだ。

「締めのラーメン」ならぬ「締めのごはん」である。

何よりツラかったのは、私は酒が飲めない。

体質に合わないのだ。

酒豪の父を持つ私だが、下戸の母の遺伝子を強く受け継いだらしい。

もちろん酒は飲めた方がいいし、飲める人を羨ましく思い努力もした。

例えば、出張で台湾に行った時のこと

仕事終わりにお客様と会食した時もかなり無理をした。

現地で「勧められた酒は飲み干すのが礼儀」と聞かされた私は、定期的に行われる「乾杯!

」のたび喉に無理やりビールを流し込み、倒された空き瓶を数えながらトイレとテーブルを往復。

「何の罰ゲームだよ」と思った。

それでも強くなりたいと訓練したが、無理だという結論に至った。

理由は、マレーシアで急性アルコール中毒になったことにある。

先輩・同僚と飲んでいた私は、急な寒気に襲われ倒れてしまったのだ。

耳が遠くなり、半分意識があるものの動くことができない。

店外のベンチに運び出され、群がる野次馬の中、駆けつけた医者に尻へ注射を打たれるという恥ずかしい伝説を残した。

翌日、先輩に渡された領収書には「injection(注射)」と大きく殴り書きがされており、今では書斎に飾った自己の戒めとなっている。

話を戻すが、妻の実家での宴会は、私にとって初めての洗礼となった。

夕食のスタイルでもわかるが、そこは酒豪の一家だったのだ。

義父は日本酒、義母はビール、義兄はワインとそれぞれのこだわりがある様で、私の前には常に3つのグラスが置かれ、空になるのを待っている状態だった。

自他共に認める「酒の最弱王」である私が撃沈するのに、そう長くはかからなかったのは言うまでもない。

「酔い潰れる」と「目覚める」を繰り返し、その日は終わってしまった。

次の日、「娘さんをください」という本来の目的をかろうじて遂げた私は、なんとか帰路についた。

後日、妻にフォロー不足だとクレームを言うと「酒が弱いことは伝えてあったが、どうやら確信犯のようだ」との回答。

ゾッとしたのを覚えている(笑)

 

酒vsタバコ論争

従って、妻は酒が強い。

私が夕食をとる目の前で妻が晩酌をする光景が、今の我が家では当たり前となっている。

一方、私はタバコを吸うが妻は吸わない。

換気扇の下が私のくつろぎスペースだ。

そのため、酒とタバコについての論争が、ときおり夫婦間で繰り広げられる。

きっかけは妻からの「禁煙したら?」という一言から始まる。

理由は健康面の心配にあるため強く反論できず、私は「ONOFFの切り替えになる」とか「会社では喫煙所の交流や情報交換がけっこう有益である」などの持論を展開し、「吸い過ぎには充分注意しているし、お酒だって一緒ではないか」と結論づけ、文字通り煙に巻いていた。

だが一度、白熱したバトルへと発展したことがあった。

「酒を飲まない奴は本音を話さない」という暴言を耳にし、私はカチンときた。

話の流れで誰かの受け売りをつい口にしてしまったらしいが、酒の最弱王としては聞き捨てならないフレーズだ。

私は「酒が合う・合わないは体質の問題であり、酒を飲まなければ本音を言えないことの方がおかしい」と反論し、「酒を飲む奴はやたらと人に勧めるが、喫煙者はタバコの強要などしない」と余計な一言を付け加えてしまった。

メチャクチャである。

「飲み過ぎ」や「吸いすぎ」に対する心配ではなく、論点がズレた文句の言い合いとなり、話の着地点は見つからなかった。

 

アメリカの蛍

「酒とタバコは適度に楽しむことで人生を豊かなものにする有能な嗜好品となる。」

これは、あるお客様に言われた言葉だ。

20038月、仕事でニューヨークの工場に訪れた際、休憩時間にタバコを吸おうと近くの従業員に喫煙所を尋ねた。

彼らは場所を教えてくれたが「日本人はヘビースモーカーだ」と大きなジェスチャーを交えて言った。

皮肉っぽい表情と仕草が妙に心に引っかかった。

今でこそ日本中は禁煙・分煙が徹底され、喫煙者は肩身の狭い思いをしているが、当時はその概念がゆるく、海外と日本の意識の差に戸惑うことが多かった。

きっとマナーの悪い日本人も少なからずいたのだろう。

現に、私でさえ引いてしまう意識の低い日本人の行動を、何度か目にしたことがある。

「イメージが悪いのかもな」そう思った。

その夜、社長宅にディナーに招かれ、シンプルだが美味しい手料理をご馳走になった。

ステーキとポテト、サラダ、そしてワインをいただいた後、グラスを片手に裏庭に案内された。

ベンチに座り涼んでいると、葉巻とワインボトルを持った社長が登場。

勧められた葉巻をふかしながら(葉巻は初めて吸ったのだが)、薄暗くなった芝生を見ていると、点々と揺れる灯りが現れた。

「ここにも蛍がいるんだ」と少し驚きながら、もてなされていることを実感し、ゆったりとした時間を楽しむことができた。

そして、

「酒とタバコは適度に楽しむことで人生を豊かなものにする有能な嗜好品となる。」

と社長が言ったのである。

「適度とは、自分の健康と周囲への配慮を考えることなのだろう」

とこの時、私は思った。

 

コロナ禍で思うこと

タバコを吸うきっかけは何だったか

そう、大学のアルバイト先で仲間に勧められたのが始まりだ。

大人への憧れというか、なんとなくカッコつけたい、そんな感じだったと思う。

テレビドラマやアニメでも、加えタバコの主人公が活躍していた。

映画館やパチンコ店、電車、会社のデスクに至るまでどこにでも当たり前に灰皿があり、いつでもどこでもタバコが吸える社会だった。

モラルの確立により喫煙所を探すのが大変になった現在では、こういった憧れを抱く者も少なくなったのではないだろうか。

喫煙できる飲食店もほとんどなくなっている。

先日、go to イートで定食屋に妻と行った。

混雑を避け、11時に予約して昼食を取ったため、店内は空いていた。

15分ほど後に2名のサラリーマンが来店し1つ隣のテーブルに座った。

彼らはマスクを外し、食事前そして食事中も向かい合って談笑している。

その姿を少しイラッとしながら見ていたが、ふと過去の自分と重なった。

公共の場の喫煙が当たり前だった頃、店内でタバコをふかしていた自分が連想されたのだ。

コロナ禍での行動にしても飲酒・喫煙にしても節度を持つことが必要なのだと思う。

根本は周囲に害を与えない行動にある。

近年、飲酒運転は厳しく取り締まりを受けているが、違反者は後を絶たない。

JTの広告で「体はよけた。それでも煙はぶつかった」というのがあるが、飲酒運転による人身事故は「それでもぶつかった」では済まない問題だ。

「適度に楽しむ」社長の言葉が頭に浮かんだ。

モラルの大切さを再認識した瞬間だった。

 

おかげさまで、我が家の酒vsタバコ論争は鎮静化している。

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